昭和45年7月21日 夜の御理解              岡村和一郎

( 途中から )…だけを取り次ぐのではなくて、えー、やはり氏子の真心をも、お取り次がせて頂くというのでなからなければならんと、私は思うております。只今、御祈念前に、もう、時間ギリギリに、えー、熊谷さんがお見えられてから、お供えをされる。何か私、今この暑いのに、暑いものはなんだろうか。何か、こう、焼けた匂いがする。唐芋の何か、ほっこり焼きか何か今頃あるとじゃろかと思うて、開けてみたらなんと、それが、トウキビだったわけですね。ほんとにこう、焼きたての、まあ、美味しいところを、まあ、誰でもなかろ、やっぱり親先生に上がって頂こうという、その、真心ですから、これ、私御祈念頂いてから、済んでから頂いたんじゃもう、値打ちがない、熱いのを。で、それで私は、もう、御祈念の間際の、時間ギリギリだったけれども、まあ、しかも御結界で私が、真心をあれは、お取次ぎさせて頂いたんですよ。「ねえ」。私はそれと思うんです、御結界の働きというものは。「ね」。氏子のその、真心を取り次がせてもらうんだと。そこで、私が、ほんなら、それこそ、すこーし時間取ったばかりち言うごたる、そのまあ、んー、妙なその、おー、事でございましょうけれどもね。それで、私は、あの、熊谷さんのお取次ぎが、私がお許し、珍しいというふりがもう、お取次ぎが出来たんだという風に思うんですよね。ですから、もう、御神前に座らせて頂いたらね、これが、誰でもであっては、もう、いけないようですね。例えば、それが若先生であったら、そら、そういうお取次ぎは出来なかっただろうと、こう思います。
あのう、孫悟空と、如来様のお話がありますよね。孫悟空が、あっという間に、一瞬に、千里も飛ぶという術を心得ておるから、このことにかけては誰も適わんと言うて自慢をしたと。それで、その、世界の果てのどこかに、自分が、ひと飛び飛んできてから、印を入れてくると言うて、そのまあ、如来様に言ったげなね。それで、如来様が行って来いと仰った。行って、こう印をいれて、またひと飛びして、一瞬の間にまた、その、如来様の側へ帰ってきて、えー、この、いわゆる世界のどっか果てから、そこんところへですね、自分がいった印を書いてきとるからと言うて、まあ、自慢らしく話したときに、如来様が、こげん手を開かれた。ところが、その如来様の手の内に書いてあったというのです。どこまで飛んでも、どこまで行っても、私の願いの中、私の働きのなか、いわゆる天地の親神。どこ行っても、いわゆる天地の親神様の懐の中だったんだぞという事を、教えられたというわけなんですよね。だから、そういうものがですね、なら、御結界であろうが、便所であろうが、そのー、寝室であろうが、お取次ぎが出来ると、私は思うんですよね。ですから、そこんところの心が開けたままでなからなければ、私は、そういう、言うならば、あー、突飛なお取次ぎは出来んのじゃないだろうかと、言うふうに思わせていただいたんです。兎に角私は、熊谷さんの真心をここで、御結界で時間ギリギリ、もう、時間過ぎてからでは、あの、それを頂いて、あー、美味しかった、珍しかったと。それが、神様への私がお取次ぎが出来た。真心をお取次ぎさせて頂いたんだというふうに、信じますことを神様は、それに裏付けするように、今のようなお知らせを下さったんですけれどね。そういうもんですよね。どうぞ。